『知ってるつもり』スローマン&ファーンバック2018-04-25

イスタンブールの猫さま

イスタンブールの猫さま


『知ってるつもり 無知の科学』スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック(土方 奈美 訳 早川書房)


4月16日

『知ってるつもり 無知の科学』(スローマン&ファーンバック)、買ったんどけど、これ、早川書房じゃーん! 早く読まないと電子書籍になっちゃうじゃーん! 悔しいからすぐ読む。


4月22日

『知ってるつもり 無知の科学』を読むと、そういう情報過多がかえってコミュニティをタコツボ化して過激にしてしまうあたりも納得できたりしますだ。


4月24日

まだ読んでる「知ってるつもり 無知の科学」に照らせば、共謀罪反対の時にはその法律の影響についてではなく「言論の自由」という価値観だけの戦いなのでみんな参加できたが、いまの具体的な影響があるところからその原因を遡る因果分析は苦手なの。誰もが「説明深度の錯覚」の虜で知ってるつもりで。


4月24日

ほんとは「内心の自由」かな。その辺もあやふやで反対してたと思う。


4月24日

こちらも、『知ってるつもり 無知の科学』で、個人がすべてを知るわけにはいかないので知らない空白の部分がどこにあるのかをわかっていることが賢いことの条件ということに通じるのであるなあ。


4月25日

『知ってるつもり 無知の科学』スティーブン・スローマン&フィリップ・ファーンバック 読了

「本書には三つの主題がある。無知、知識の錯覚、そして知識のコミュニティである」(p.276)

無知は文字通り、莫大な情報のほんの一欠片しか個人の中にはないという事実。知識の錯覚は


4月25日

「説明深度の錯覚」とも言われ、ヒトは知ってるつもりで実はほとんど知らない(自転車の絵を書いてみると実感できるよ)というよく知られているほとんど知られていない事実。そして最後の、知識のコミュニティがこの本の最大の主張で、知識は個人の中には無く、他人や本やハードディスクや


4月25日

インターネットや物語などの中にあり、これらと自分の中の知識とを区別できない故に「説明深度の錯覚」におちるという観察を武器に、だったらこれらのインターフェイスツールを使って「各人が何かの専門家の知識のコミュニティ」を形成してうまく働けるようにすることこそ、


4月25日

知性の進歩ではないのか、というちょっとコミュニティに向かない私には辛い結論なのだが、よく分かるのです。

そんな人間社会を生きる個人として「何がわかっていて何がわかっていないか」を分かっておくということを、単純に「ああ、無知の知ね」なんて片付けず(これも説明深度の錯覚)、


4月25日

「データの所在地を示す「ポインタ(位置情報)」や、あとから数字や記号を入れるべき「プレースホルダ(空欄)」がたくさん含まれているはず」(p.140)の自分の中の知識(の無さ)を整理整頓して、コミュニティの知性と連動して、美味い汁を吸いたい、もとい、柔らかく備えておきたいのでした。


4月26日

てなふうに『無知の科学』で自分がまったく知識を持っていないから他人との協力によって正しい判断をしよう、と思っておっても、他に行くところがなくてセキュリティ内部監査をやってるジジイ部長の勉強に、毎週当たり前のように2時間も付き合わされたらブチ切れますが、私がおかしいのでしょうか。


4月26日

この解説だけだと「知ってるつもり」なのが完全な悪のようですが、知ってることと知らないが調べればわかるはずと知ってることと何を調べればわかるかも知らないことを明確にしていくことで「知ること」が「個人が知っていること」を超えていると肯定的に論じている本ですだ。 https://twitter.com/Hayakawashobo/status/999773284559413248




『知ってるつもり 無知の科学』スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック(土方 奈美 訳 早川書房)